太平洋に広がる島々
海洋の人々
太平洋の島々に最初に移り住む人々が大挙到来してから後、約3000年間は他に移民が入ってくることはありませんでした。
1521年にマゼランが、大きな3艘の船と共に到着しました。その後、続いて宣教師やスペインからの軍隊が普通の船で次々に上陸をはじめ、スペイン人たちは勝手に領有を宣言してマリアナの文化をおびやかし始めたのです。
しかし、マリアナの島々はマゼランが訪れる前、3000年の間、孤立していた訳ではありません。
東のカロリン諸島から、航海者達が定期的に物資を運んでいたのです。けれど、決して彼らは定住しようとはしませんでした。
彼らは「metawal wool」と呼ばれる古代から伝承されてきた航路に沿って、500島もの島々へ航海を続けていました。
スペイン人が統地を始めると、島々の間で貿易および交流をする事をすぐに禁止しました。
政府は、島の人間達を支配管理下に置くために宣教師達は外の世界から他の世界の影響が入ってくる事を懸念したのです。どんなアウトリガーカヌーでも、海に出た事が見つかれば、すぐに沈められました。これによりミクロネシアの主要の島々との通信手段が断たれてしまったのです。
1805年、「metawal wool」が再開されました。カロリン諸島とマリアナ諸島間の最初の航海から実に200余年経ったこの時に、再び航路の幕が開きました。
カロリン諸島のカヌーは貝殻(それらは宝貝などで、現在も貴重な貝として珍重されています)、木製のアウトリガー、そして椰子で編んだロープ(よりひも)をグアムとマリアナ諸島の最南端へ持ち込みました。それらの品々は、鉄や銅、衣類やタバコなどと交換されたのです。
時にはもっと遠方の北の先まで向かい、肉や新鮮なレモンと交換ができるテニアン島やサイパン島へと航海をしました。
サイパン島のサドック・タシでは、彼らは立派なパンの木を見つけ、その木を使って新しいカヌーを作りました。アナタハン島は火打石と軽石の宝庫でした。
その頃はまだサイパン島もテニアン島も少数の人々のみが居住していましたがスペインの自治政府は、人々を自分達の支配下に置きやすいように全てのチャモロ人達にグアム島への移住を命令しました。
この命令は絶対服従を余儀なくされ、1年足らずでサイパン島とテニアン島は、ほとんど無人化しました。
サイパンには人こそいませんでしたが、そこには資源がたくさんありました。1805年、巨大な台風がこの一帯を襲い、西側のカロリン諸島の環礁を一面破壊してしまいました。
しかし、一人のナビゲーターと酋長Piwanwanは、metawal woolを活用してマリアナ諸島の豊富な資源を伝えました。彼は一族の男達を集結させ、生き残ったアウトリガーを全て修理させて、さらに北へ向かって航海に出たのです。