マリアナ、サイパンの始まり
太古の昔
数億年前、恐竜たちがすでに絶滅して、次の世代を担う植物や生物が多様化したころ、マリアナ列島も地殻の活動によってその形を成し始めました。
現在チャモロと呼ばれているサイパンの住民たちの祖先は、紀元前3,000年ごろインドネシアからカヌーに乗って島伝いにやってきたと言われています。
彼らは古代チャモロ人と呼ばれています。
今日、グアムやテニアンに残されているタガストーンやラッテストーンと呼ばれる遺跡に見られるように、当時の彼らは優れた建築法を持っていたと言われています。
後の多くの戦争に巻き込まれてその技術は徐々に失われ、現在では実際の事を知るすべも無く神秘に包まれています。最も有名な遺跡はテニアン島のタガストーンです。
マリアナの名前の由来
ポルトガル生まれのマゼランが船隊を率いて、後にマゼラン海峡と名づけられた南米南端の海峡を通過して、広大な海に出たのは、1520年11月28日でした。ここから苦難の航海が始まります。その海が静かであったので、マゼランは「マール・パシフィカム(静穏な海)」と命名し、それが太平洋の語源となっていますが、それからひたすら西へ向かい、グアム到着までに98日もかかりました。1年2カ月前にスペインを出た時は5隻だった船隊は3隻になり、食料も底をついていました。
苦難の航海の末、1521年フェルディナンド・マゼランはグアムを発見しました。
マゼランがその湾に近づいた時、たくさんのカヌーに取り囲まれた。マゼランは、大きな三角形の帆で高速で走るカヌーを見て、これらの島々を「三角帆(Latine
Sails) の島」と名づけました。
島民は、新鮮な果 物、肉、魚、真水などを船に運び込み、マゼラン一行と物々交換をました。
相手の欲しいものを与えて、こちらの欲しいものをもらうというのが当時の太平洋諸島の常識であり、島民は、鉄製品その他、欲しいものを船からどんどん持ち出した。中には、船に備え付けのボートまで持ち出した者もいました。
島民の習慣を知らないマゼランは激怒し、40名の武装兵を連れて上陸して、約50軒の家を焼き払い、数隻のカヌーを壊し、7人を殺してボートを取り戻しました。船に戻ったマゼランは、島々を「泥棒の島々」と名を改めます。その後長い間地図上にはこの名前で掲載されていました。
マゼランは3月9日にグアムを出航しました。その後、
彼はフィリピンのマクタン島(セブ島の近く)で島民との戦争で殺されています。
その後、スペインは島々を勝手に領有宣言をします。
そして、皇帝フィリップ4世の妻であるオーストリアのお姫様「マリアナ」の名前にちなんで「泥棒の島々」から「マリアナ諸島」と改名しました。
その後、グアムで領有宣言を行ったレガスピは、グアム島民を「彼らは背が高く、たくましく、がっしりした体格で、力強さが明白である。女性もまた背が高い。男も女も、黄色みがかった、ゆったりとした長い髪をしており、頭のうしろで束ねている」と描写
しています。
彼らは今はいなくなった古代チャモロ人「タガ族」であるとされている。
侵略の歴史
人類がこの列島に流れ着いて以来、チャモロ人たちは漁業と島の豊富なくだもので、平和に暮らしていました。
スペインが勝手に領有宣言をした後、多くのスペイン人がやってきます。
そしてこの地は貿易の拠点としました。元来、平和的で陽気な彼らは、初めは素直に彼らを受け入れましたが、キリストの布教が始まるとそのようすが変わります。
多くの戒律をもつキリスト教が、彼らにそぐわないのは明白です。彼らは激しい抵抗を始めました。そして1672年、タモン湾に面 した村で、サンヴィトレス神父が島民に殺害される事件が起きました。
この殺人を契機にして規律を正すため、スペイン軍が組織され村を襲撃し、それに対して島民が報復する、スペイン軍とチャモロ人の戦争がはじまりました。
この戦争は、1695年に、テニアン島の近くのアギーハンという小島で、最後のチャモロ人部隊が殲滅され、降伏するまで継続します。
その間、天然痘が流行したり、台風がグアムを襲ったりしたこともあって、かつては5万人ないし10万人と考えられていたチャモロ人は、5000人以下に激減しました。生き残った大部分は女子供であり、彼らはグアムに集められました。
5カ所の定住地に強制的に移住させられて、他のマリアナの島々は無人島になりました。チャモロ人女性の中には兵士やメキシコ人・フィリピン人兵士などと結婚したものもいましたが、自分の生んだ子供が奴隷のように扱われるのを恐れて、子供を産むのを拒否したと言われています。
逃れた一部は、ロタ島に隠れ住んだと言われています。
マリアナへの人口移動
1800年代初期、東カロリン諸島のトラック(チューク)からサイパンへ集団移動がありました。原住民をカロリニアンといいます。このカロリニアンたちの航海に対する探求心は他の船乗りと同じように深いものがあり、彼らが発見した星の海図は現代でも広く用いられています。最新技術と自然との調和を目指します。